労務経営ブログ

「人材防衛」という言葉の危うさ——守るべきは人材ではなく、組織の持続可能性である

2026年2月前半、対症療法が溢れる人事ニュース

「春闘6%賃上げ要求」「カスハラ対策義務化」「ビジネスケアラー支援」——2026年2月前半の人事ニュースを読んで、私が感じたのは強い違和感でした。

HRコンサルタント会社のブログ記事では、これらを「人材防衛」の視点で捉え、「今いる従業員をいかに守り、定着させるか」が最優先課題だと結論付けています。

しかし、本当にそうでしょうか。

私が問いたいのは、「守る」とは何を意味するのか、そして「それは未来に耐える構造なのか」ということです。

本記事では、社会保険労務士として人事制度設計に携わってきた経験から、「人材防衛」という言葉の危うさと、本当に守るべきものは何かを論じます。

〇 「防衛的賃上げ」の危うさ:持続可能性なき対応は問題の先送り

・ 記事が推奨する「防衛的賃上げ」

元記事では、「防衛的賃上げ」という言葉が使われています。

> 「赤字であっても、人件費を「コスト」ではなく「事業継続のための必要経費」と割り切り、可能な限りの原資を確保する経営判断が迫られています」

一見すると、従業員を大切にする姿勢に見えます。しかし、これは本当に「防衛」なのでしょうか。

・ 短期的離職防止vs長期的組織疲弊

賃上げによって短期的には離職を防げるかもしれません。しかし、原資がない中で無理に賃上げをすれば、いずれ組織は疲弊します。

– 翌年も同水準の賃上げを求められたらどうするのか
– 賃上げ以外の投資(設備、研修、採用)が犠牲になっていないか
– 賃上げをしても、評価制度や働き方の問題が放置されていないか

これらの問いに答えられない賃上げは、持続可能ではない対応です。そして、持続可能ではない対応は、結局のところ「問題の先送り」にすぎません。

・ 本質的な問い:持続可能な賃金体系とは何か

私は賃上げを否定しているわけではありません。従業員の生活を守ることは重要です。

しかし、本質的な問いは、「いくら賃上げするか」ではなく、「どうすれば持続可能な賃金体系をつくれるか」です。

– 賃金カーブはフラット化していないか
– 評価と報酬の連動は明確か
– 生産性向上の余地はないか
– 価格転嫁の交渉は尽くしたか

これらの構造的な問いに取り組まずに、単に「原資を確保して賃上げする」という対応では、数年後に組織は破綻します。

・ 「防衛的」ではなく「戦略的」賃上げを

賃上げは「防衛」ではなく、「戦略」であるべきです。

戦略とは、限られた資源をどこに投下し、どのような組織をつくるか、という設計です。

– どの層に重点的に賃上げするのか(若手か、ミドル層か、管理職か)
– 賃上げと引き換えに、何を求めるのか(生産性向上、スキル習得、責任範囲の拡大)
– 賃上げ以外に、何で報いるのか(キャリアパス、働き方、育成機会)

これらを設計せずに、ただ「賃上げしないと人が辞める」という防衛的思考では、未来は開けません。

〇 カスハラ対策:撤退ラインの先にある構造設計

・ 記事が推奨する「撤退ライン」

元記事では、カスハラ対策として「撤退ライン(対応打ち切り基準)」を明確にすることが重要だと述べられています。

> 「大声を張り上げられたら通話を録音する」「土下座を強要されたら警察に通報する」「対応時間が30分を超えたら上長に交代する」

これ自体は正しいのですが、問題はその先です。

・ 撤退ラインを決めるだけでは不十分

撤退ラインを決めるだけでは不十分です。重要なのは、その基準を誰がどう判断し、どう責任を持つかという構造です。

現場の従業員が「これ以上は対応できない」と判断し、対応を打ち切ったとします。しかし、その後に何が起きるでしょうか。

– 上司が「お客様を失うのは困る」と言って、現場の判断を否定する
– 経営者が「そこまで強く出る必要があったのか」と問い詰める
– 他の従業員が「あの人は対応を放棄した」と批判する

これらのリスクを構造として防げなければ、制度は機能しません。

・ 組織が現場を支える構造とは何か

カスハラ対策の本質は、マニュアルをつくることではなく、現場の判断を組織が責任を持って支える構造をつくることです。

具体的には、以下のような仕組みが必要です。

1. 経営層のコミットメント

– 社長名で「不当な要求には組織として毅然と対応する」「従業員を守るためなら取引停止も辞さない」という方針を明文化
– それを社内外に公表する

2. 判断の責任を組織が引き受ける

– 現場が対応を打ち切る判断をしたとき、上司や経営層がそれを覆さない
– 顧客からのクレームや取引停止のリスクは、組織全体で引き受ける

3. 事後のケア体制

– カスハラを受けた従業員へのカウンセリング
– 特別休暇の付与
– 人事評価における配慮(カスハラ対応が評価を下げない仕組み)

これらの構造がなければ、どんなに立派なマニュアルをつくっても、現場は「結局、自分が我慢するしかない」と感じます。

・ 「お客様は神様」という商慣習との決別

カスハラ対策は、日本の商慣習である「お客様は神様」という考え方との決別を意味します。

これは、容易なことではありません。経営者は「顧客を失うリスク」を恐れます。しかし、ここで問うべきは、「不当な要求をする顧客を失うことは、本当にリスクなのか」ということです。

従業員を疲弊させ、離職させ、組織を壊す顧客——そのような顧客は、組織にとってマイナスの存在です。失うべき顧客なのです。

この覚悟を持てるかどうかが、カスハラ対策の成否を分けます。

〇 社内公募制度:上司の拒否権排除だけでは足りない

・ 記事が推奨する「上司の拒否権排除」

元記事では、社内公募制度について以下のように述べられています。

> 「制度運用の鍵は、応募・異動に対して『直属の上司が拒否できない(ブロックできない)』ルールにすることです」

これは正しい指摘です。上司が「お前にはまだ早い」「抜けられたら困る」と握りつぶしてしまえば、制度は形骸化します。

しかし、それだけでは足りません。

・ 構造として防ぐべきリスク

社内公募制度には、以下のようなリスクが潜んでいます。

1. 異動先部署の受け入れ拒否

– 上司が拒否できなくても、異動先の部署が「そんな人は要らない」と拒否したら?
– 人事部が「適性がない」として却下したら?

2. 現在部署での評価低下

– 公募に応募したことが「会社への不満」と見なされ、評価が下がったら?
– 「裏切り者」扱いされ、職場で孤立したら?

3. 不合格後のフォロー不足

– 公募に落ちた従業員が絶望し、退職したら?
– フィードバックがなく、「自分には価値がない」と感じたら?

これらのリスクを構造として防げなければ、制度は形骸化します。

・ 社内公募制度の構造設計3原則

社内公募制度を機能させるには、以下の3つの構造設計が必要です。

原則1:応募・異動のプロセスを人事部が管理する

– 上司も、異動先部署も、個別に拒否権を持たない
– 人事部が公正なプロセスで判断し、決定する
– 異動の可否は「適性」と「タイミング」で判断し、政治的な理由を排除する

原則2:応募したこと自体を保護する

– 公募への応募を理由に、現在部署での評価を下げることを禁止する
– 応募事実は秘匿し、不合格の場合も現在部署には知らせない
– 応募者へのハラスメントを厳罰化する

原則3:不合格者への丁寧なフィードバック

– 単に落とすのではなく、「なぜ今回は不合格だったのか」「どのスキルが不足しているのか」「次回合格するには何が必要か」を具体的に伝える
– 育成計画を提示し、次なる挑戦を支援する

これらの構造がなければ、社内公募制度は「手を挙げたら損をする制度」となり、誰も応募しなくなります。

〇 ビジネスケアラー支援:「お互い様」の風土は構造で担保する

・ 記事が推奨する「お互い様の風土醸成」

元記事では、ビジネスケアラー(介護しながら働く人)支援について、以下のように述べられています。

> 「経営者が率先して『介護は誰にでも起こる。隠さずに相談してほしい』と発信し続けることが重要です」

これは正しいのですが、風土は「発信」だけでは醸成されません。

・ 風土は構造によって担保される

「お互い様」の風土を本当につくりたいなら、以下の構造が必要です。

1. 制度の整備

– 介護休暇・短時間勤務・リモートワークなどの選択肢
– 復帰後のキャリアパスの保証
– 介護を理由とした不利益取扱いの禁止

2. 業務の属人化排除

– 特定の人にしかできない仕事をなくす
– 業務の標準化・マニュアル化
– チーム内での相互バックアップ体制

3. 評価制度での配慮

– 介護による時短勤務が評価を下げない仕組み
– 「成果」ではなく「貢献」で評価する基準

これらの構造がなければ、経営者がいくら「相談してほしい」と言っても、従業員は「相談したら評価が下がる」「迷惑をかけたくない」と感じて隠します。

〇 制度導入の目的化を避ける:機能する構造とは何か

・ 多くの企業が陥る罠

私が懸念しているのは、多くの企業が「制度を導入すること」を目的化していることです。

賃上げをした、カスハラ対策マニュアルをつくった、社内公募制度を始めた、介護支援制度を整えた——しかし、それが本当に機能しているか、未来に耐える構造になっているかは、別の問題です。

・ 人事制度の本質:人の善意に依存しない

人事制度の本質は、**「人の善意」に依存しないこと**です。

– 上司が理解あるから
– 担当者が頑張るから
– 経営者が優しいから

こういう前提で制度をつくってはいけません。誰が担当しても、誰が上司でも、誰が経営者でも、制度として機能する構造が必要なのです。

・ 機能する構造の3つの条件

未来に耐える人事制度には、以下の3つの条件があります。

条件1:明確な基準と判断枠組み

– 何が許され、何が許されないのか
– どのように評価し、どのように処遇するのか
– 例外的な対応は、どのような基準で判断するのか

これらが明確でなければ、現場は判断できません。

条件2:属人性の排除

– 担当者が変わっても、制度は機能するか
– 上司が変わっても、評価は公平か
– 誰もが同じ情報にアクセスできるか

属人性に依存した制度は、持続しません。

条件3:回復可能性の担保

– 問題が発生したとき、是正できる仕組みがあるか
– 制度が機能しなくなったとき、見直せるプロセスがあるか
– 従業員が異議を唱えられる窓口があるか

完璧な制度は存在しません。重要なのは、問題が起きたときに回復できる構造です。

〇 守るべきは「人材」ではなく「組織の持続可能性」

・ 「人材防衛」という言葉の危うさ

元記事の最後には「人材防衛が経営の最優先課題」とあります。

しかし、私は違う視点を提示したい。守るべきは「人材」ではなく、「組織の持続可能性」である、と。

・ 人材を守ることと、組織を守ることは違う

人材を守ることは重要です。しかし、それは短期的な離職防止ではなく、長期的に機能する構造をつくることです。

短期的に人材を守るために、無理な賃上げをし、組織が疲弊すれば、結局は人材も守れません。組織が破綻すれば、従業員は職を失います。

本当に人材を守りたいなら、組織の持続可能性を担保することが先決です。

・ 組織の持続可能性を担保する3つの視点

視点1:未来耐久性

– この制度は、5年後も機能しているか
– 環境が変化しても、対応できる柔軟性があるか
– 短期的な称賛より、長期的な機能を優先しているか

視点2:構造設計

– 人の善意に依存していないか
– 属人性を排除できているか
– 誰が担当しても、機能する仕組みになっているか

視点3:結果責任

– この制度の結果責任は、誰が負うのか
– 問題が起きたとき、誰が是正するのか
– 従業員に責任を押し付けていないか

これらの視点で制度を設計しなければ、どんなに華やかな施策も、一過性で終わります。

〇おわりに:対症療法ではなく、構造設計を

2026年2月前半の人事ニュースは、確かに重要なテーマを扱っています。賃上げ、カスハラ対策、介護支援、社内公募——これらはすべて、現代の企業が直面する課題です。

しかし、これらを「対症療法」として捉えるのか、「構造設計」として捉えるのかで、結果は大きく変わります。

対症療法は、短期的には効果があります。しかし、根本的な問題は解決しません。

構造設計は、時間がかかります。面倒です。嫌われることもあります。しかし、長期的に組織を守ります。

私は社会保険労務士として、多くの企業を見てきました。その経験から確信しているのは、短期的な対症療法ではなく、構造設計こそが組織を守るということです。

賃上げも、カスハラ対策も、社内公募も、介護支援も——それらが本当に未来に耐える設計になっているか。そこが問われているのです。

短期的な称賛より、長期的に壊れない選択を取ること。嫌われることを恐れず、組織を守る側に立つこと。結果責任を引き受ける覚悟を持つこと。

それが、専門家としての責任であり、2026年を迎える私たちに求められる姿勢だと、私は考えています。

参考記事
HRC Japan「【2026年2月前半】春闘「6%賃上げ」要求の衝撃/インターンシップに注意喚起など5選」
https://www.hrc-j.com/blog/hr-news-2026-feb-1/

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