労務経営ブログ
春闘2026:賃上げ5.94%要求の裏側にある「実感なき賃上げ」問題と企業が取るべき人材投資戦略
〇高水準の賃上げ要求、しかし「生活が良くなった」実感はない
2026年3月5日、連合が春闘の賃上げ要求を発表しました。加重平均で5.94%、中小企業に至っては6.64%という高水準の要求です。企業業績も堅調で、経常利益は5期連続増益。賃上げの原資は十分にあります。
しかし、連合自身が「生活が向上したと実感している人は少数」と認めている事実があります。2025年春闘は5.25%という34年ぶりの高水準で着地したにもかかわらず、実質賃金はマイナスが続いているのです。
本記事では、社会保険労務士として現場を見続けてきた視点から、この「実感なき賃上げ」問題の本質と、企業が今すぐ取るべき人材投資戦略について解説します。
〇 2026年春闘の全体像:数字が語ること
・ 連合の賃上げ要求の詳細
連合が発表した2026年春闘の賃上げ要求(2日時点の集計)は以下の通りです。
全体の要求:
– 加重平均:5.94%(昨年同時期6.09%)
– 平均賃金方式で要求した2508組合:平均1万9506円、5.94%
– ベースアップ分(2161組合):1万4438円、4.37%
中小企業(300人未満)の要求:
– 1525組合の賃上げ要求:6.64%
– 前年を上回り、1994年以来の高水準
– 格差是正分1%以上を加えた「6%以上」を目安
この数字だけを見れば、賃上げは順調に進んでいるように見えます。中小企業が大企業との格差是正を意識した要求を出していることも評価できます。
・ 企業業績は堅調:賃上げの原資は十分にある
財務省が3日に公表した2025年10-12月期の法人企業統計によると、全産業(金融・保険業を除く)の経常利益は前年同期比4.7%増の30兆270億円と、5期連続の増益となりました。
つまり、賃上げの原資は十分にあるのです。にもかかわらず、なぜ「生活が向上した実感」がないのでしょうか。
〇 「実感なき賃上げ」の構造的問題
・ 実質賃金がマイナスを続ける理由
連合は「実質賃金1%上昇の軌道に乗せる」ことを目標に掲げています。これは裏を返せば、名目賃金が上がっても、物価上昇がそれを上回っているため、実質的な購買力は低下し続けているということです。
〇実質賃金 = 名目賃金 – 物価上昇率
2025年春闘で5.25%の賃上げが実現しても、実質賃金がマイナスだったということは、物価上昇率が5.25%を上回っていたということです。特に生活必需品である食料品やエネルギー価格の上昇が、労働者の生活実感を直撃しています。
・ 賃上げの「配分の歪み」が実感を奪う
しかし、問題は物価上昇だけではありません。より本質的な問題は、賃上げが全員に均等に配分されているわけではないということです。
以下のような格差が存在しています:
1. 企業規模による格差:大企業と中小企業の賃金格差は依然として大きい
2. 雇用形態による格差:正社員と非正規社員の賃上げ率には大きな差がある
3. 職種・業種による格差:賃上げしやすい業種と、構造的に難しい業種がある
4. 年齢・勤続年数による格差:年功序列が崩れる中、世代間格差が拡大している
この「配分の歪み」が、平均値では高水準でも、多くの労働者が「生活が良くなった」と実感できない理由なのです。
・ 中東情勢の影響:短期的には軽微、長期的にはリスク
記事では、米国とイスラエルによるイラン攻撃を受けた中東情勢の緊迫化が懸念材料として挙げられています。
第一生命経済研究所の新家氏は「短期的な影響は軽微」との見方を示していますが、原油価格の高騰が長期化すれば、2026年の冬のボーナスや2027年春闘に影響が出る可能性があるとしています。
つまり、今回の賃上げが実現しても、それが「未来に耐える」かどうかは不確実なのです。
〇 私が考える「未来に耐える賃上げ」とは
・ 賃上げは「コスト」ではなく「人材投資」である
金属労協の金子議長が述べた「短期的な環境変化と将来に向けた人材投資を同列に議論すべきではない」という言葉は、極めて重要です。
賃上げを単なるコスト対応として捉えれば、業績が悪化したときに真っ先に削減対象になります。しかし、賃上げを「長期的な人材投資」として捉えれば、短期的な業績変動に左右されず、継続的に実施すべきものとなります。
私が外部CHROとして経営者に伝えているのは、「人材は最も重要な経営資源であり、その投資リターンは5年後、10年後に現れる」ということです。
・ 「誰に、どれだけ配分するか」の設計が未来を左右する
賃上げを実施する際、最も重要なのは「誰に、どれだけ配分するか」の設計です。
全員一律に5%上げるのか、それとも:
– 若手社員を重点的に上げるのか
– 中堅社員のモチベーション維持を優先するのか
– 業績貢献度に応じて差をつけるのか
– 市場価値の高い職種を重点的に上げるのか
– 離職リスクの高い層を優先するのか
この配分設計によって、3年後、5年後の組織の競争力が大きく変わります。
・ 実質賃金をプラスにするための「収入の複線化」
実質賃金をプラスにするには、名目賃金の上昇率を物価上昇率以上にする必要があります。しかし、それが難しい場合、企業が取れる戦略は「収入の複線化」です。
具体的には:
– 副業・兼業の容認:収入源を多様化させることで、生活の安定性を高める
– スキルアップ支援:資格取得や教育訓練を支援し、市場価値を高める
– 成果報酬制度の拡充:時間ではなく成果で評価し、高い時間単価を実現する
– 福利厚生の充実:住宅手当や食事補助など、現金給与以外の支援を強化する
これらを組み合わせることで、名目賃金の上昇率が物価上昇率に届かなくても、労働者の生活実感を改善することができます。
〇 企業が今すぐ取るべき5つの人材投資戦略
1. 賃金の「層別実態把握」を行う
まずは、自社の賃金の実態を「層別」に把握してください。
– 年齢層別(20代、30代、40代、50代以上)
– 雇用形態別(正社員、契約社員、パート・アルバイト)
– 職種別(営業、製造、事務、管理職など)
– 勤続年数別(3年未満、3-10年、10年以上)
そして、各層ごとに「市場賃金との乖離」「生活実感」「離職リスク」を評価してください。全体の平均値だけを見ていては、配分の歪みは見えません。
2. 賃上げの「配分ルール」を明確化する
賃上げを実施する際の配分ルールを明確にしてください。
– 一律○%+個別査定○%の組み合わせ
– 若手重視型/中堅重視型/ベテラン重視型の選択
– 職種別の市場価値に応じた配分
– 業績貢献度に応じた配分
ルールが不透明なまま賃上げを実施すると、「なぜ自分はこの金額なのか」という不満が蓄積します。透明性こそが、賃上げの納得感を高めます。
3. 実質賃金をプラスにする「収入の複線化」を支援する
前述の通り、副業・兼業の容認、スキルアップ支援、成果報酬制度の拡充、福利厚生の充実など、収入の複線化を支援してください。
特に、副業・兼業については「認めるだけ」では不十分です。副業先の紹介、副業に必要なスキル研修、副業と本業の両立を支援する柔軟な勤務制度など、積極的な支援が必要です。
4. 短期業績変動に左右されない「賃金制度の長期設計」を行う
中東情勢のように、外部環境は常に変動します。短期的な業績悪化を理由に賃上げを中断すれば、人材は流出します。
重要なのは、短期業績変動に左右されない賃金制度の長期設計です。
– 業績連動部分と固定部分を分ける
– 業績が悪化しても、固定部分は維持する
– 業績連動部分は、透明性の高い指標で設計する
これにより、労働者は「この会社は短期的な業績に関係なく、人材投資を続ける」という安心感を持つことができます。
5. 「生活実感」を定期的に測定し、PDCAを回す
賃上げを実施したら、「生活が向上した実感があるか」を定期的に測定してください。
エンゲージメントサーベイや従業員満足度調査の中に、以下のような質問を入れることをお勧めします:
– 昨年と比べて、生活に余裕が出たと感じますか?
– 将来の生活に対する不安は減りましたか?
– 会社は適切に賃金を配分していると思いますか?
これらの回答を層別に分析し、配分設計を改善していく。このPDCAサイクルが、「実感なき賃上げ」から脱却する唯一の道です。
〇 結果責任を引き受ける覚悟があるか
・ 賃上げは「やった」で終わりではない
多くの企業が「賃上げを実施しました」というアナウンスで終わってしまいます。しかし、賃上げの本当の効果は、3年後、5年後に現れます。
– 人材は定着したか
– エンゲージメントは向上したか
– 業績は改善したか
– 組織の競争力は高まったか
これらの結果責任を引き受ける覚悟があるかどうか。それが、未来に耐える賃上げと、その場しのぎの賃上げを分けるのです。
・ 嫌われる覚悟を持って、構造を変える
賃上げの配分設計を変えれば、必ず反発が出ます。「なぜ自分の上げ幅が少ないのか」「以前のやり方の方が良かった」という声が上がるでしょう。
しかし、それでも長期的に組織を守るために必要なことであれば、経営者は嫌われる覚悟を持って実行しなければなりません。これが「結果責任倫理」です。
私自身、人工透析患者として働いた10年間で、「制度があっても、現場が機能しなければ意味がない」ことを痛感しました。だからこそ、「未来に耐えるかどうか」を最上位の判断基準として、覚悟を持って提案し続けています。
〇「実感なき賃上げ」から「未来に耐える人材投資」へ
2026年春闘の賃上げ要求は5.94%と高水準です。しかし、「生活が向上した実感がある人は少数」という現実があります。
この「実感なき賃上げ」から脱却するために、企業が今すぐ取るべきアクションは以下の5つです:
1. 賃金の「層別実態把握」を行う
2. 賃上げの「配分ルール」を明確化する
3. 実質賃金をプラスにする「収入の複線化」を支援する
4. 短期業績変動に左右されない「賃金制度の長期設計」を行う
5. 「生活実感」を定期的に測定し、PDCAを回す
賃上げは「コスト」ではなく「人材投資」です。その投資リターンは、5年後、10年後に現れます。短期的な業績変動に左右されず、長期的な視点で人材に投資し続ける企業だけが、未来に耐える競争力を持つことができるのです。
経営者の皆さん、労務担当者の皆さん。今回の春闘を「他人事」で終わらせず、自社の賃金制度を根本から見直す機会にしてください。
記事URL:
https://jp.reuters.com/markets/japan/XG3A3DPBFRL7TDH4EUVLYQ66IQ-2026-03-05/
執筆者プロフィール:
若林 忠旨(わかばやし ただむね)
社会保険労務士法人東京中央エルファロ 社会保険労務士、障害者雇用戦略アドバイザー。人工透析患者として10年勤務した経験と、外部CHROとして経営者の視点を融合し、福祉でなく「経営戦略」としての障害者雇用を提案。制度と現場の”すき間”を埋め、戦力化を実現する仕組みづくりが得意。現場が前向きに受け入れる障害者雇用を実践的に支援中。




